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財閥の意味とは?日本の財閥15選

財閥の意味とは?日本の財閥15選

「財閥」という言葉は、1900年前後に登場して以来、現在でもあちこちで使われています。学校の授業でも習いますが、詳しい内容については、正直よく覚えていないという人も少なくないかもしれません。ただ、「財閥」はその存在自体はなくなった今でも、形を変えて社会に大きな影響を及ぼしており、それについて知ることは、近代日本の成り立ちについて学ぶ上で重要な意味を持ちます。

本記事では、日本の「財閥」について、その意味や主なものの一覧を紹介していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

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財閥の意味とは?

「財閥(ざいばつ)」とは、「特定の家族や同族の閉鎖的な所有・支配のもとに、持株会社を中核とした多角的経営を展開する独占的巨大企業集団」といった意味を表す言葉です。

明治時代に作られたジャーナリズム用語で、当初は同郷の財界人グループの共同的事業活動を指していましたが、その後は三井や住友などの大富豪や、その支配下で営まれる事業体を指して使われるようになりました。
「閥」の字は、「出身などの共通する要因によって結ばれた人々の排他的な集まり」を意味しています。

財閥は、「コンツェルン」と呼ばれる企業グループの一形態にあたります。世界中で同様の形態が見られますが、日本においては江戸時代・明治初期に発生しました。維新後の工業化や近代化に大きな役割を果たしましたが、富の集中などの弊害も招き、第二次大戦後はGHQに軍国主義の支柱とみなされたこともあって、全て解体されています。

日本の財閥

上でも述べたように、財閥は世界中で見られる企業形態で、日本でもかつてはさまざまなグループが存在していました。すでに解体された現在でも、形を変えて日本経済に大きな影響を与え続けている例が少なくありません。

以下の項目では、そうした日本のさまざまな財閥の一覧を紹介していきましょう。

三大財閥

まずは、「三大財閥」と呼ばれるもっとも代表的な例について紹介します。
具体的には、「三菱」「三井」「住友」の3つです。これらは日本で「財閥」と言う場合、まっさきに名前が上がる確率が高くなっていますが、現在でもさまざまな企業の名前でおなじみでしょう。

三菱財閥

創業者:岩崎弥太郎

「三菱財閥」は、明治維新後に土佐藩の商事部門を担った岩崎弥太郎が起こした財閥で、当初は海運業を主業としました。社名の元となった社章の「三菱」は、土佐藩主の山内家と岩崎家の家紋を組み合わせて作られたものです。これは、その他の財閥が家名を呼び名として用いたのに比べて、特徴的な点となっています。

財閥解体後は現在の「三菱グループ」に引き継がれており、傘下には「三菱化学」や「三菱自動車工業」、「ニコン」、「明治安田生命」など数多くの企業を擁しています。

三井財閥

創業者:三井高利

「三井財閥」は、17世紀末の豪商三井高利を祖とする日本最大の財閥です。1683年江戸に両替商を開いたのを機に発展し、明治には持株会社の「三井合名会社」を中心として、金融・軽工業・商業・鉱山など多部門に渡るコンツェルンを形成しました。

財閥解体後は、三井銀行を中心とした「三井グループ」に受け継がれています。グループの主要各社には、「IHI」や「王子ホールディングス」、「TBSホールディングス」、「富士フイルムHD」、「三井化学」、「トヨタ自動車」などがあります。

住友財閥

創業者:住友政友

「住友財閥」は、1691年の「別子(べっし)銅山」の開坑で富豪となった住友家が、明治から昭和にかけて築いた財閥です。明治年間の別子銅山の近代化を機に急速に成長し、重化学工業のコンツェルンとして、炭鉱・電力・建設・倉庫などの分野に進出していきました。昭和に入ると、「住友化学」や「住友金属工業」など、現在まで続く企業群を擁するようになります。

解体後は現在の住友グループに引き継がれており、主要各社には前述の企業のほかに、「住友大阪セメント」や「住友商事」、「住友生命」などが名を連ねています。

四大財閥

日本の財閥を語る場合、上記の3つにもう1つ加えて、「四大財閥」として括ることもよくあります。そのもう1つの財閥とは、「安田財閥」です。こちらも知名度の高い財閥で、現在でも名前を耳にする機会が多くなっていますが、続いてはそちらについて説明しましょう。

安田財閥

創業者:安田善次郎

「安田財閥」は、明治大正期の実業家・安田善次郎が一代で築き上げた財閥です。両替商から出発した善次郎は、明治に入ると多大な資本蓄積に成功し、金融業者として名を成します。明治10年には「安田銀行」を設立、第一次大戦後は、一時財閥随一の資本力を有するまでに至りました。

現在は「芙蓉グループ」に受け継がれており、主な加盟企業には、「損害保険ジャパン」や「東京海上日動」、「みずほフィナンシャルグループ」、「ニチレイ」、「日産自動車」などがあります。

十大財閥

三大財閥、四大財閥に続いては、「十大財閥」と呼ばれるものの一覧を見ていきましょう。
上記の4財閥を含めてそう呼ばれますが、ここではそれ以外の6つを取り上げます。いずれも現在にまで流れが続くグループばかりです。

鮎川財閥

創業者:鮎川義介

「鮎川財閥」は、「日産コンツェルン」という名前でも知られています。源流となったのは「久原財閥」で、こちらが第一次大戦後の不況で経営危機に陥った際、実業家の鮎川義介が事業を引き継いだことで誕生しました。1928年の「日本産業株式会社」への改組を機に、「日産コンツェルン」の名で呼ばれるようになっています。

解散後は現在の「日産・日立グループ(春光グループ)」に引き継がれており、主要な企業には「日立製作所」や「日産自動車」、「SOMPOホールディングス」などがあります。

浅野財閥

創業者:浅野総一郎

「浅野財閥」は、実業家の浅野総一郎がコークスの販売で成功を収めたのをきっかけに誕生、「渋沢財閥」の支援を受けつつ成長していきました。同郷の安田善次郎率いる「安田財閥」とのつながりが深く、その支援によって造船や鉄鋼業などの分野に進出し、第一次大戦後は5年間で20以上の新会社を設立するなど、瞬く間に巨大化します。

GHQによる解体後は、安田財閥系の「芙蓉グループ」に合流しました。主なグループ企業には、「太平洋セメント」や「日本郵政株式会社」、「沖電気工業株式会社」などがあります。

古河財閥

創業者:古河市兵衛

「古河財閥」の創業者古河市兵衛は、豪商小野組からの独立を機に、鉱山経営に乗り出します。1877年に足尾銅山を買収し、事業を成功させたことで、財閥の基盤を作りました。その後事業の多角化・近代化を強力に推し進め、一大コンツェルンを形成するに至ります。

戦後GHQにより解体された後は、「古河グループ(古河三水会)」を称して、金属・電機・化学工業などを中心とする企業集団を形成して今に至っています。主なグループ企業には、「古河機械金属」、「富士通」、「みずほ銀行」などがあります。

大倉財閥

創業者:大倉喜八郎

「大倉財閥」の源流は、1857年に大倉喜八郎が、江戸で「大倉屋」という乾物店を開いたことに求められます。喜八郎は、その後鉄砲屋の開業を経て貿易業に進出、大久保利通や伊藤博文らと親交を深め、一代で財閥を築き上げました。ただ、大陸事業に集中しすぎたなどの理由から、第二次大戦の敗戦をきっかけに、財閥は崩壊しています。

主な大倉財閥系の企業には、「大成建設」や「ホテルオークラ」、「帝国ホテル」、「千代田火災海上」などがあります。

中島財閥

創業者:中島知久平

「中島コンツェルン」とも呼ばれる財閥ですが、中核となったのは、飛行機製造会社の「中島飛行機」です。こちらは、中島知久平が1917年に創設した日本最初の民間飛行機製造会社で、1931年に持株会社として改組・設立されました。満州事変以後、軍需拡大の時流に乗って急成長し、傘下に多数の下請企業を擁して財閥を形成するに至ります。1946年にGHQの方針で解体されてからは、主要な事業のほとんどが、「富士重工業(現:SUBARU)」に引き継がれることとなりました。

野村財閥

創業者:野村徳七

「野村財閥」の歴史は、大阪の両替商二代目の野村徳七が父からの出資を得て、「有価証券現物問屋 野村商店」を創業したことに始まります。その後、日露戦争などの好景気を背景に成長していき、「大阪野村銀行(現:りそな銀行)」や「野村證券」などを設立するに至りました。金融部門以外にも、東南アジア・ブラジルのプランテーションなどの事業に進出しています。

解体後は現在の野村グループに受け継がれており、主なグループ企業には、上記のもののほかに「野村不動産」や「野村総合研究所」などがあります。

十五大財閥

続いての日本の財閥一覧は、「十五大財閥」と呼ばれるものです。すでに紹介した10の財閥も含まれますが、ここではそれ以外の5つを挙げて見ました。「渋沢財閥」や「理研コンツェルン」など、現在でも名前を知られているものが多くあります。

渋沢財閥

創業者:渋沢栄一

「渋沢財閥」という名称は、一般に渋沢栄一の経営支配下にあった事業群を指して使われます。渋沢が明治時代に創立した第一銀行を中心とする企業で形成され、渋沢同族会社を中核として、第一次大戦後に著しく発展しました。古河・浅野の両財閥にも融資するなど、日本財界で大きな影響力を発揮しますが、1943に第一銀行と三井銀行が合併したのを機に弱体化し、GHQによる解体後はほぼ影響力を失っています。

渋沢が経営に関わった企業には、「王子製紙」や「みずほ銀行」などがあります。

神戸川崎財閥

創業者:川崎正蔵

「神戸川崎財閥」は、男爵川崎正蔵によって設立された兵庫の財閥で、「川崎造船所」を中心に形成されました。よく似た名前の「東京川崎財閥」とは無関係です。十五銀行を主力行として、昭和初期までに経営基盤を固めますが、その後部下の離反などもあり、昭和恐慌の際には財閥としての実態を失うこととなりました。

ただ、中心企業だった「川崎造船所」はその後再生して「川崎重工業グループ」を作るに至ったほか、独立した企業もそれぞれのグループ(川崎製鉄グループなど)を形成しています。

理研コンツェルン

創業者:大河内正敏

「理研コンツェルン」は、昭和初年に台頭した「新興財閥」の1つです。財団法人理化学研究所の3代目所長・大河内正敏が、研究所の成果の工業化などの目的で、「理科学興業」を設立したのを発端に誕生しました。その後、マグネシウム、ピストンリングなど次々に企業を設立し、1941年には60数社の事業集団を形成するに至ります。

戦後解体されてからは、現在の理研グループに受け継がれました。主なグループ企業には、「リコー」や「三愛石油」、「コカ・コーラウエスト」などがあります。

日窒コンツェルン

創業者:野口遵

「日窒コンツェルン」は、野口遵(したがう)の創設による「日本窒素肥料」をもとに築き上げられた、化学工業を中心とする一大コンツェルンです。いわゆる「新興財閥」の1つで、「野口コンツェルン」とも呼ばれました。朝鮮半島への進出で事業規模を拡大させていきますが、第二次大戦の敗戦によって資産のほとんどを失い、その後解体されています。

戦後は1950年に水俣工場を復旧し、新日本窒素肥料として再出発したのち、65年に社名を「チッソ」に改めています。そのほかの関連企業には、「積水化学工業」や「旭化成」などがあります。

日曹コンツェルン

創業者:中野友禮

「日曹コンツェルン」は、1920年に中野友禮が「日本曹達」を設立したのをきっかけに誕生しました。こちらも、「新興財閥」の1つにあたります。

中野は同社の設立後、次々にソーダ生産企業を傘下に収めて事業を拡大させ、コンツェルン体制を整えていきます。しかし、事業の急激な膨張に伴う組織の未整備などの要因から、経営が徐々に悪化した結果、日本興業銀行の手により縮小整理されるに至りました。戦後正式に解体された後、事業は「日本曹達」、「太平洋金属」、「三和倉庫」などに受け継がれています。

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